科学の知識とサバイバルする力

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遊びの中で科学的な体験が減っている

最近の子どもたちは、身近に火が無くて、火に触れる機会が少ないのかなぁって思います。我が家のキッチンもIHですし、暖房もエアコンやホットカーペットです。私が小さい頃は、それなりに火遊びをしていた気がします。お菓子のビニルや枯れ木、新聞紙を燃やしてみたり、焼き芋をしたりです。今ではそんな風景もめっきり見なくなりました。田舎のほうではそのような光景はまだ見かけるのでしょうか?私が住んでいる地域もだんだんと緑が減って宅地化してきたので、今、そんなことをしてたらご近所や小学校からクレームがきそうです。まぁ、当時も「子どもたちだけで火遊びはしてはいけませんよ」と注意はうけてましたけどね。

でも、こういうことって子どもの教育にも影響しそうな気がします。何かが燃えること、すなわち「燃焼」っていうのは一番身近な化学反応であり、酸化反応の一つです。小学校や中学校の化学の授業で化学反応を習うときに、遊びや生活のなかでいろいろなモノを燃やしてきた経験がある子と、無い子では学習の理解度が違ってきそうな気がします。そりゃ、試験では暗記した化学反応式を機械的に書いてしまえばそれまでですが、実体験のない暗記だけの知識は将来の役に立つとは思えません。

危険察知能力は科学的な体験から育まれる

ところで、この冬から我が家では暖房方法をエアコンから円筒型の石油ストーブに切り換えました。妻はその置き場所として、壁に寄せて配置することを選びました。というのも、子どもが火傷しないよう柵で囲うため、壁に沿って配置したというのがその理由なのですが、これって危ないと思いませんか?この妻がとった行動に「これは危険だな」と思える感覚が非常に大事なのだと思います。こういう感覚や直感っていうのは、先に話したように、小さい頃から今に至るまで、如何にいろいろなモノを燃やしてきたかで養われるものだと思います。

その配置を「危険だ」と思えるか思えないか。それは火と木造の壁の性質を知っていなければなりません。他にも化学や物理にまつわる危険なシチュエーションってのはたくさんあります。ストーブの上で洗濯物を干したり、埃のたまったコンセントをみたとき、小さい鍵をマンションの5階からキャッチして受け取ろうとしたとき、日当たりのよい物置のなかに灯油缶を保管していたり、電気の配線がコイルのように巻付いていたり、川上が曇っているのに中洲でバーベキューをしていたりと様々です。

そこに科学的な危険を察知できるかできないかは、学校で習った科学の知識プラス、小さい頃から家庭でやってきた家事手伝いや火遊び、自然遊びの経験がものを言うのです。さらにそういった経験から得た知識や身体で感じた知識が、血の通った知識となり、将来、企業に就職したときに研究や開発において創造性が発揮されそうな気がします。

ほかにも、授業中の記憶の方法が変わってきますよね。例えば、ビニルを燃やしたときの異臭、雨の降った翌日の枯れ木や落ち葉の燃えにくさ、炎を手で触ったり、もちろん火傷もしたり。化学の授業で「あぁ、あのときのあれがダイオキシンね」とか「あぁ、水が酸素の通りを邪魔するのかぁ」「この手の火傷はあのときのだよね」と昔の思い出がより強い印象を残して知識記憶から経験記憶へ強化されていきます。

スリリングで面白い遊具が減った

危険だからといって、なんでも遠ざけてしまうのは如何なものでしょうか?最近、子どもを公園で遊ばせているときによく感じるのですが、昔に比べて面白い遊具がなくなっていってるような気がします。そもそも、面白い遊具というのは、自身がその遊具に働きかけることによって、身体に遠心力や慣性の力を感じることができるものが多いと思います。いわゆる、扱い方によっては危険な遊具とも言えますが、ほんとそういう遊具をみなくなりました。他にも面白い遊具とは、「遊び場所と生態心理学」でも少し書きましたが、発想によって幾通りもの使い方ができる自由度の高い遊具です。しかし、これも発想が身体能力を超えてしまうと危険なものになってしまいます。ですが、この危険と隣り合わせの遊びも学習の一コマではないでしょうか?

危険を取り除き過ぎて逆に危険

遊具だけでなく、私が小さかったころに比べて、子どもを取り巻く環境がいろいろと変化しました。溜め池には有刺鉄線の高い柵が張り巡らされ、ドブ川や用水路は蓋がされて暗渠になってます。自転車は高学年からになりました。学校や保育園ではマスクに消毒のオンパレード。他にも、毎日お風呂に入って石鹸やシャンプーで体や髪を洗う。風邪を引いたらすぐに抗生剤が処方される。危険や不潔を奨励しているわけではないけれど、なんか本質的でない気がします。うまく説明できませんが、いわゆる、臭いものに蓋をするような対症療法的なニュアンス。なんだかなぁって感じです。私はオールオアナッシングな性格なので、本質的で根治的な手法を好みます。

私はあまりこういう社会的な流れは好きじゃないです。まぁ、過剰な対策で神経質になる行政側の気持ちもわかります。やりすぎなぐらいの安全対策をしていなければ、もし、どこかの溜め池で子どもが溺れてしまったとき、その親から「市は十分な安全対策にとりくんでいなかった」と訴訟を起こされるかもしれないからです。その場合、行政は子どものためを思った対策というよりも、保身のための対策といえるでしょう。

学力よりも生きる力を育てることが優先

社会的で人道的な観点からすると、何事にも十分な安全対策は必要だと思います。しかし、それに比例して生物的な人間の能力は低下していくように思えます。そこにジレンマがあります。安全を優先すると子どものサバイバルな能力は下がり、能力を優先すると、ある一定の割合で子どもが淘汰されてしまいます。「非人道的な!」と思われるかもしれませんが、見る方向や、側面が異なるだけで、そこに善悪はありません。悠久の昔から繰り返されてきたことです。そして、私たちはそのあらゆる危険なものからサーバイブして、生きのびた先祖の子孫です。だからといって、安全培養され、生きのびる能力を奪われた現代人が今後も子孫を残していけるかどうかは甚だ疑問ですが。

生きのびる能力の低い子どもたち。すなわち、抵抗力の低い子ども、体力や運動能力のない子ども、考える力のない子ども、危険察知の能力のない子どもに社会のインフラやルールをあわせていったら、ふつうの子どもや能力の高い子どもは足を引っ張られるように能力低下を招くでしょう。いや、因果関係の前後が逆かもしれません。社会のインフラやルールから、危険なものをなんでも遠ざけてしまった結果、生きのびる能力の低い子どもたちを誕生させてしまったのかもしれません。我が子には生きのびる能力の高い人間になって欲しいと思っています。大袈裟なことを言えば、危険なものを如何に使いこなすかが人類の叡智なような気がしますがいかがでしょうか。

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