プログラミング教育の再考


コンピューター教育もいいですがたまには自然遊びもどうですか?パパたちも大人げないですが、子どもに手本を見せてます

最近増えた子ども向けプログラミング教室や塾

私の住んでる場所は、地方の中核都市圏ですが、近頃、子供向けのプログラミング教室が増えてきましたよね。広告でも街なかでもよく見かけます。ここは関東から離れているので教育分野では関東に比べて遅れていると思います。関東のほうでは随分前から、子ども向けのプログラミング教室といった流れがあったのではないでしょうか。私も2年前までは同じ考えで、子どもの教育にとってもプログラミングは良い教材になると思っていました。しかし、2年も経つと考えは変わるもので、そのうえ私は天邪鬼なたちなので、流行っていたり、良いっていわれたりすると反対してみたくなります。2年前、私が書いたブログの内容を手短に述べると「子どものおもちゃとして、Raspberry Piという3800円の掌サイズの小型パソコンを子どもに買い与えて、サーバ構築や電子回路を使った電子工作、プログラミング、マインクラフトのようなゲーム、ラジコンやロボットなどで遊んでみたらいかがですか」とう内容でした。値段も手頃だし、ラズパイをつかって遊びながら論理的思考や想像力が培われるんじゃないかなぁなんて考えてました。

IT技術は他の分野の仕事でも役に立つけどね

私は理学療法士としてリハビリを生業とし医療機関に勤務していますが、結構パソコンも好きで、特にExcelVBAを使ってリハビリ業務を効率化することが得意です。VBAというのはエクセルのなかに組み込まれている「Visual Basic」というプログラミング言語を使って普通の表計算ソフトとしては出来ないような作業までさせちゃいましょうよ!というアプリケーションのことです。他にもPHPやJavascript、HTMLを使ったりと、コードを考えたりするときには寝食を忘れるくらい熱中してしまいます。この楽しさを子どもにも味わって欲しいと願って、上記のラズパイのことを書いたのですが、優先順位に間違いがありました。如何に、プログラミング教育をして論理思考を養ってもらいたいとはいっても、身体を使った自然遊びに勝るものはないと考えを修正しました。幼少期にスクリーンで育った人が、大人になってから独創的で創造的な人物になることはないと思います。逆に自然で遊んだ子のほうが後々にハイテク技術に触れることで画期的な発明ができそうな気がします。

プログラミングも英語も所詮道具に過ぎない

所詮、プログラミングも英語と同様に「何かを為すための道具」です。プログラミングや英語が「出来ること」が重要なのではなく、プログラミングや英語を使って「何ができる」かのほうが大事です。道具を使える能力と道具を使って個性的でユニークなものを創りだす能力は別物です。自分の心の中に温めてある抽象的でクリエイティブなものを、いかにして外界に表出し、表現し、具体化するのかが大切なのだと思います。ですから、早期教育で伸ばすべきは道具の習得(記号の操作)よりも、想像力や豊かな感性を伸ばすことが優先であったりもします。私は、プログラミングの知識やプロのデザイナーが使用するようなソフトであるIllustrator、Photo Shopを扱うことはできますが、残念ながら、画期的なシステムやソフトをつくったり、可愛いロゴやオシャレなフライヤーをつくることはできません。それらの操作を勉強しているときは、「これが扱えるようになったら、俺もカッコいいものが作れるようになるんだろうなぁ」って期待していたものですが、実際、使えるようになってもカッコいい作品は何一つ思い浮かびませんでした。当たり前です。だって、絵心もデザインのセンスも全くないんだから。

大切なのはクリエイティブな発想と感性

アップルやマイクロソフトの創業者がどういう育ち方をしたと思いますか?やはり最近流行りのプログラム教室に通っていたから、ああいう発想でクリエイティブな偉業をなしとげられたのでしょうか?ジョブズやビルゲイツの自伝を読んだことがないのでわかりませんが、彼らが生まれた1955年(昭和30年)のアメリカには、今よりもたくさん自然があったはずです。例え、いくら彼らがオタクな幼少期を過ごしていたとしても、その年代の自然環境や生活環境は彼らに現代っ子と同じようなオタク生活を過ごさせはしないでしょう。幼少期の彼らの周りにはある程度の自然や里山が広がっていたと思います。彼らのクリエイティブな発想はそういう環境で育まれたと思います。年代も同じことですし、映画「スタンドバイミー」のような風景だったのかもしれません。理不尽なガキ大将から逃れたり、小遣い稼ぎのバイトや家事の手伝いなどもしたことでしょう。少なくともプログラミング教室に通ってないことは間違いないと思います。そして、もともと先天的に備わっていた論理や記号操作に強いという認知特性や発達凹凸により、現在の偉業や発明が生まれたのではないでしょうか?

都会育ちと田舎育ちは認知の仕方も考え方も異なる

これからの時代は、野山や海川で自然遊びをたくさんして育った子が希少となります。おのずと、街中で育った子ども達と異なった思考方法や発想をしてくると思われます。どちらの思考方法が良いかというのではなく、マジョリティーと違う考え方ができるということ自体が社会にでたときに有利にはたらくことがあるかもしれません。そして強みになるかもしれません。私の担当していた患者さんのおばあちゃんが言っていました。「みんながすることの反対のことをしなさい。そしたら勝てるよ」と。私が子どもの頃に夢中になって遊んだこと。それは、裏山の藪に秘密基地をつくったり、ため池やドブを探検したり、田んぼで戦争したり、藁で生き埋めにしたり、魚釣りやザリガニ釣り、滝壺に飛び込んだり、釣った魚やザリガニを焼いて食べたり、プラモデルを作ったり、エアガンでサバイバルゲームをしたり、「陣取り」や「ケイドロ」もたくさんしました。それらの遊びのなかでルールやランクを考えて制限を設けたり、より面白いゲームに改変したり、友達同士のいざこざを解決したり、コミュニケーションを円滑にしたりと、いずれ社会にでたときに役に立ちそうな要素が至る所に散りばめられていました。遊びのなかにシステムを構築すること。自然の中にある隠れたデザインを見つけ出すこと。これらのことをもっとたくさん熱中していれば、私も今よりももっとクリエイティブな人物になっていたのかもしれません。せめて、子どもたちにはドリルや習い事以上にやって欲しいことでもあります。

塾や教室などの教育ビジネスに騙されるな

プログラミング教室以外にも、世間には子どもの将来に華やかな夢を描く親をカモにした教室がたくさんあります。音楽教室やバンド教室、DJ教室やダンス教室みたいな習い事の程度ならまだ良いですが、同じようなジャンルのもので専門学校にまでなっているものがあります。私が小さいころに好きだった、ZeebraやBOOWYなど、当時の音楽シーンやダンスシーン、ヒップホップシーンを代表する第一人者がそれらの教室や専門学校に通っていたからトップランカーになったのでしょうか?いいえ、違います。彼らが活躍していたときにはまだ、日本ではそういうムーブメントは黎明期であり、教室や専門学校などといったものはありませんでした。彼らは好きで好きでたまらない状態、つまり、ハマっていたからこそ、そのみちの第一人者になったのです。ということは、そういう人たちみたいになってほしいと親が願ったとしても、そういう教室に通わせても二番煎じのような人物にしかなれません。親がいくら止めても、好き好きでたまらなくて、勝手にすすんでいくからこそ、そういうものの第一人者になるのです。そういうときに親は、ヒップホップのレコードやギターやガラクタのパソコンを居間やトイレにポツンと置いておくことしかできません。そして子どもが興味をもったなら、それを邪魔せずに見守ることしかできません。まぁ、映画「耳をすませば」での雫のお父さんのセリフですが、「人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。何が起きても誰のせいにもできないからね。」の覚悟が親には必要ですけど。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする