文武両道を目指せ
日本では古来より文武両道が尊ばれていますが、我が子に教育を施すときも文武両道を意識しながら行っているつもりです。しかし、勉強だけに偏重している親御さんも結構いるんじゃないでしょうか。私は子どもには、頭でっかちなガリ勉くんになってほしくないし、かといって、スポーツだけしかできないような運動バカにもなってほしくありません。まぁ、どっちにしても、ただ真面目なだけで面白味のない人間にもなってほしくはありませんが…。
運動ができるとは
昨今の学歴社会のなかでは、運動神経よりも勉強のほうが重要視されがちです。しかし、実は、「運動が出来る」ということも、頭の良さを現しているようなのです。運動も所詮、脳のなせる行為だからです。運動とは、素人的には、只々、全身の筋肉が動いているだけの行為に思われがちですが、そうではありません。実はもっと複雑高度で、筋肉はもちろんですが、脳や神経、感覚の連携が重要となってきます。もし、運動が筋肉の動きだけで構成されていたら、ボディービルダーやウェイトリフティングの選手がスポーツ万能になっているはずですよね?そうではなく神経系や感覚系、もうひとつ付け加えるなら精神面も、いわゆる運動神経の良さに関わってきます(ここでいう運動神経とは解剖学的な意味ではなく、運動能力の高さをさす)。運動とは脳でプログラムされた事象が、ある環境の中で、身体の各部位を、適切なタイミングで協調して発現される行為です。とても頭が悪い人間にできる芸当ではありません。
運動ができる人も頭が良い
「IQ200になる習慣」では、脳にとって「思考」と「運動」は同じ行為なのだそうです。ただ、対象としている空間が仮想的空間か物理的空間かの違いだけであって、脳の行為としては同じものだそうです。厳密に言うと、運動が上手な人は運動を司っている脳部位の発達が良いということになり、受験勉強が得意な人は、記号操作や論理、記憶に働く脳部位の発達が良いということになります。したがって、運動が良くできる人も、勉強が良くできる人も、両方とも頭が良いということになります。しかし、私はそういう理由で、勉強も運動も両方ともできるようになってほしいと思っているわけではありません。純粋に、ある一定の運動能力は生き残っていくために必要だからです。また、勉強だけでは十分な結果を出せない職業もあると思います。例えば理系最高峰の職業である「医師」です。
医師にも運動神経が必要
ただ医師になるだけなら、ガリ勉して医学部に合格し、医師免許を取得すればなれると思います。しかし、そのようにして医師になった人に、家族の手術や診察を任せられますか?できれば、脳や心臓の手術、人工関節に変える手術、がんや腫瘍を取り除く手術などは、よくテレビで特集されているような「神の手を持つドクター」にしてほしいですよね。私の考えですが、おそらく腕のいい医師は、学生時代に勉強ができていた以外に、運動神経も良かったのではないでしょうか。だと思います。
どうして勉強だけじゃダメなのか?
神の手と呼ばれるような腕の良い医師は、小さい頃に工作が好きでノコギリや釘と金槌を持って、夢中になって遊んだ子どもだったかもしれません。また、指で触ってその組織が正常な組織なのか、異常な組織なのかが見分けられる医師は、小さい頃に野山で昆虫採集や川で魚採りなど自然遊びを沢山やった子どもだったのかもしれません。股関節や膝関節の人工関節術が得意な医師も同様に運動遊びを沢山やった運動神経の良い幼少期をを過ごしたと思います。ですから、小さい頃に塾や幼児教室ばかりに通って勉強ができるようになり、医師免許を取得した人は、ただ知識だけで表面的な診察しかできない医師になりそうじゃないですか?せっかく高学歴な職業に就けたとしても、職業として向いてなかったり下手糞だったら不幸ですよね。他にも運動能力の高さが仕事の出来に影響しそうな職業は、歯科医師とか理学療法士、柔道整復師、美容師など手技や行為が伴う職業がありそうです。では、そのほかの高学歴な職業は勉強だけで大丈夫かといわれるとそうともいえません。運動能力が必要でないかわりに、コミュニケーション能力が必要です。弁護士や会計士、国際的なビジネスマンなどがそうでしょう。どちらにせよ、ガリ勉だけその職業に就いてしまった人は、顧客を十分に満足させる仕事はできないでしょう。
人間も結局は弱肉強食の生き物
そして、私は、自分の子どもには、時代や政体に左右されることない普遍的な幸せを掴んでほしい思っています。平和な平成時代の今だけ限定で幸せになってほしいわけではありません。たとえ、戦国時代のような戦乱の世の中になったとしても、明日にでも起こるかもしれない大災害に見舞われたとしても、十数年後に起こるかもしれない食糧危機になったとしても、知恵と体力と精神で、笑顔の絶えない幸せな家庭を築いてほしいと思っているのです。私たちはともすれば、歴史の授業のときに、あんな時代に生まれなくてよかったなぁ、なんて思うかもしれませんが、戦国時代でも幸せに生活していた人々が必ずいたはずです。少数でしょうが。そのような生きることだけでも難易度の高い時代に「東大卒」や「高学歴」の肩書がなんの役に立つでしょうか。しかし、高い抽象思考をみにつけて、広い視野で世界をとらえ、自分の思った通りに身体を自由自在に動かすことができるなら、どのような時代でも楽しくサバイバルしていけると思います。私が我が子に対して教育熱心になるのは、そういう目的があるからです。ある意味、趣旨はユダヤ人の教育に似ているかもしれません。