子どもの屁理屈は論理的思考の下地

屁理屈でもいいじゃん

大人は、子どもの言ったことを、「屁理屈だ」って決めつけて主張をはね付けることがよくあります。私も小さい頃そうでした。だから、私は「うちはうち、よそはよそ」「屁理屈いいなさんな」って言葉が昔から嫌いです。大人になったら、そういうこともわかるようになるのかなぁって思ってましたけど、結局、大人になっても考えはかわらず、私が正しいのだとわかりました。ちなみに、屁理屈とは「筋道の立たない理屈。こじつけの議論。」だそうです。

どうにかして説得しようとしている心の現れ

大人だったら、筋道の立たない理屈をこねて議論を推し進めるのはみっともないけど。子どもが言ったなら逆に大人は褒めてあげないと思います。「うちはうち、よそはよそ」って言葉は「比較検討」すること。「屁理屈」は理屈を考えること、つまり論理的に思考し因果関係をあきらかにすることです。でも、まだ、子どもは筋道をちゃんと立てることができないから、屁理屈になっちゃうだけで、どうにかして誰かを説得しようとしている心は大人と変わらないと思います。屁理屈は、いずれ、ちゃんとした理屈をいえるようになるための練習段階です。親はそれをわかってあげて考え方を補強してあげないといけないと思います。

親が面倒くさがると、子どもは考える力が弱くなる

誰もが人の親になると、子どもからよく世の中の疑問や矛盾を問われます。そういうときに親にしっかりとした論理的思考や一貫した基準がないと親は説明に困ります。そうすると親は便利な魔法の言葉を使います。前述した「うちはうち、よそはよそ」「屁理屈はいいなさんな」などです。わからないなら、親は「わからない」とはっきり言うべきです。そして、わからないで終わらせず、「一緒に考えようか?」とか「どうしてこうなるんだろうね?」と問い返すべきです。「どうして、あの子はオモチャを買ってもらえるのに、うちは買ってくれないの?」と言われたら「うちはうち、よそはよそ」って言い放つことは思考停止を意味します。そのオモチャは良い影響を与えないからですか?それともお金がないからですか?それなら、なぜ、良い影響を与えないのですか?なぜ、お金がないのですか?それをちゃんと子どもと向かい会ってわかりやすいように、導くことができますか?先人の知恵や風習、習慣、古くからの言い回しは文化として大切に残していくべきものですが、必ずしもすべてがそうであるとは限りません。教科書が必ずしも正しくはないのと同様に。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする